SSラツィオ
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SSラツィオ

原語表記Societa Sportiva Lazio S.p.A.
愛称I Biancocelesti (白と水色)
Le Aquile (鷲)
Aquilotti (鷲の雛)
創設年1900年
所属リーグセリエA
所属ディビジョン1部(2023-24
昨季リーグ順位2位(2022-23
ホームタウン ローマ
ホームスタジアム
スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ
収容人数72,698
代表者 クラウディオ・ロティート
監督 イゴール・トゥドール
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ソチエタ・スポルティーヴァ・ラツィオ(Societa Sportiva Lazio)は、イタリアラツィオ州ローマに拠点を置くプロサッカークラブ。
概要

愛称はBiancocelestiで、チームカラーは白と青(水色)で、これは元々陸上競技をはじめとする複合スポーツクラブとして誕生した経緯から、スポーツの象徴的な存在であるオリンピックに因んで、オリンピック発祥の地であるギリシャ国旗に使用される2色を採用したことに由来する[1][2]。通称はラツィオ。サポーターはラツィアーレと呼ばれる。

ASローマとは同じスタディオ・オリンピコを本拠地とするが、ローマは主としてローマ市内での人気が高いのに対し、ラツィオは広くラツィオ州に支持者を持つ。

この2チームのダービーマッチデルビー・デッラ・カピターレとして盛り上がりをみせ、熱狂的なサポーター同士の暴力沙汰や器物損壊などの騒動も少なくない。

イタリア国内では初めて株式を上場したサッカークラブでもある。
歴史リベルタ広場にある創立記念プレート

1900年に設立。前身は、イタリア人将校ルイジ・ビビアレッリが創立した「ソシエタ・ポデスティカ・ラツィオ(Societa Podistica Lazio=ラツィオ競歩協会)」である。1940-1941シーズンのラツィオ

1958年にコッパ・イタリアを獲得。これがクラブにとっての初タイトルであった。1973-74に初めてスクデットを獲得して以降は低迷し、セリエBとセリエAを行き来するようになった。また、成績面においてもライバルのローマに大きく水をあけられる状態であった。ユニフォームにスクデットが付けられた1974-75シーズン
セルジョ・クラニョッティ会長時代

こうした状況を打破するため、1992年に大手食品会社チリオのオーナー、セルジョ・クラニョッティが会長に就任すると、ジュゼッペ・シニョーリポール・ガスコインアーロン・ヴィンターらを獲得した。

ディノ・ゾフが監督を務めて以降は上位に顔を出すようにはなったが、当時はクラニョッティ自身が多忙だったため、1994年には監督だったゾフにフロントを任せて、ゾフの後任にズデネク・ゼーマンを招聘、1994-95シーズンにはリーグ2位に入るなど、以降は優勝争いに加わるようになる。

1997年にスヴェン・ゴラン・エリクソンが監督に就任すると、ロベルト・マンチーニヴラディミル・ユーゴヴィッチらサンプドリアの監督時代に指導した選手を獲得した一方、在籍中に3度リーグ得点王のタイトルを獲得したものの、不満分子となることがあったジュゼッペ・シニョーリをシーズン半ばに放出した[3]

1998年にイタリアのクラブでは初めて株式を上場し、これによって潤沢な資金を得たクラブは、1998-99シーズン開幕を前にシニシャ・ミハイロヴィチイバン・デ・ラ・ペーニャセルジオ・コンセイソンデヤン・スタンコヴィッチクリスチャン・ヴィエリマルセロ・サラスといったスター選手を次々に獲得、終盤までリーグ首位を走っていたものの、ACミランに逆転され、2位に終わったが、UEFAカップウィナーズカップ優勝を果たした[4]。翌1999-00シーズンには26年ぶりのリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇とクラブ史上初の2冠を達成するなど大きな成功を手にした。

しかし、サッカーバブル崩壊と共に、株式上場が裏目に出たことやチリオの業績悪化の影響を受けて多くの負債を抱えるようになった。これにより、多くのスター選手が移籍市場に売り出され、ついに、2002年には生え抜きでチームのキャプテンでもあったアレッサンドロ・ネスタACミランに売り出さなければならないほどにまでクラブの財政は悪化した。その後、クラニョッティ一族は2003年にクラブ経営から退き、一族の顧問弁護士であったウーゴ・ロンゴが管財人として会長職に就任した。
クラウディオ・ロティート会長時代

クラニョッティによるラツィオの経営が悪化すると、2004年に清掃・警備会社等を経営する実業家クラウディオ・ロティートが買収に乗り出しクラブを買収。会長に就任する。

極度の財政難のため緊縮財政を実施しており、補強はきわめて限られた財政力で行なわれている。緊縮財政を反映して選手の給与額を制限し、大型補強もほとんど行なわないため、ラツィアーレからの反感を買うことも多いが、ラツィオが多額の負債を抱えながらも生き残っているのはロティートの辣腕に負うところが大きい。2005年には、1億4000万ユーロ(約195億円)と言われる負債の23年の分割払いで税務当局と合意するなど、優れた手腕を発揮した。

ロティートはルチアーノ・モッジとの親交が深かったが、その深さが仇となり、カルチョ・スキャンダルへの関与が疑われた。こうして2006年7月14日、セリエAの八百長問題に関連して「セリエB降格および勝ち点-7点からのリーグ戦開始」との判決が下される。7月25日、控訴審判決においてセリエA残留、2006-07シーズンの勝ち点-11でのシーズン開始と2005-06シーズンの勝ち点-30の判決が下された。後の判決によって、2006-07シーズンのペナルティが勝ち点-3に削減された。この事件についてはカルチョ・スキャンダルの項を参考のこと。

2006-07シーズン、クラブには重いペナルティが課されたが、デリオ・ロッシ監督の下、デルビー・ロマーノで歴史的大勝(ラツィオが3点差以上のスコアをつけて勝利したのは初めて)をするなどして最終的にシーズン3位でUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得するなど、再生は堅実に進められた。2008-09シーズンはセリエAでは10位に終わるものの、コッパ・イタリアを制し、続くイタリア・スーパーカップも獲得した。

2009-10シーズン、移籍希望を公言したゴラン・パンデフにロティートが激怒し、同様の訴えをしたクリスティアン・レデスマなど主力数選手などと共に戦力外扱いされる出来事があり、その影響などから成績不振が続いた。


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